前者後者コミュニテイ

⑥前者・後者のテレパシー

前者同士、後者同士では、実はテレパシーのような機能が働いています。

前者同士で「無言の察し合い」「”ふつう”の共有」
後者同士は「感覚の通じ合い」「言葉のいらない共感」

といった感じといえるでしょうか。

 

日本人は非言語のコミュニケーションが得意な性質を持っているようですが、前者と後者では「回路」が違います

そして回路の違う同士でお互い「なんであんなに察しが悪いのだろう」「なんで一から十まで説明しないと通じない人がいるのだろう」と思い合っているのです。

 

前者のテレパシー

前者同士は実は、お互いの「ふつう」を持ち合って合意を形成し合う「ふつう共有フィールド」のようなものを共通して関知しています。

前者同士はお互いの「ふつう」を出し合って、ここですり合わせます。そして通じ合うと、その場その場の合意による「ふつう平面」が出来上がり、共有されたその平面上のルールにのっとって高速のパス回しが始まります。

「ふつう」が近いと一瞬で確認し合え、これがピタッと一致すると「そう!」と非常に爽快なようです。こうなっているととても気持ちがよく、みんながこの状態になることが理想状態のようです。

前者にこれができるのは、前者の情報保存方法によるところが大きいように思います。
情報処理方法の違い

ちなみに前者同士のこのパス回しに、後者は基本的に入れません。
そのために前者に囲まれた環境にいると「のけものにされている」と感じるケースも多いようです。

 

また、前者は基本的に、
「ふつう共有フィールド」を介して合意形成 ⇒ 「共有ふつう平面」確定 ⇒それをもとに各自の「役割」が決まる ⇒ 持ち帰ってそれぞれが「責任」をもって遂行する

それが全人類共通の基本マナーのような感覚でいます。
ダイレクトに本人に向かうのは、少々野蛮で乱暴な行為なのです。

 

前者は誰に対してもこれができると期待しているので、後者にもこの「共有ふつうボード」を通して会話をしようとするのですが、通じなくて「信じられない」となったしまうのです。そしてあくまで「察する」ように婉曲的な表現を続けるのですが、スルーされていっそうイライラします。

一方の後者はこの感覚がありませんし(見えていませんし)、ふつうボードの使用自体にそもそも合意した覚えがないので、なぜ直接自分に言ってこないで「ふつう~」というのか、意味のわからないルールでジャッジされるのか、長年謎に思い続けています

 

後者のテレパシー

後者が「わかる」というのは、自分と相手の感覚がダイレクトに開通するイメージです。
「わかる」ときは本当に体で「わかる」

一心同体という言葉に表されるような、「主観的な共感状態」が発生します。
後者のコミュニケーションは、この「!」を生むための補助のようなものです。

それができるのは、後者がまさに島同士のように、地下でつながっているからだと思われます。
⇒世界観の違い

 

この主観的な共感性が、後者の「言語説明への意識の甘さ」や、「責任の馴れ合い」にもつながっているのですが、非言語部分の感覚まで含めて一気に共有できますし、後者同士はこれを感じると「安心」します。非常な親近感を覚えますので、それだけで一瞬にして友情が生まれるレベルです。

一方で前者にはこの「下でつながる」感覚が基本的にありません。後者同士がこの状態で盛り上がっている時、前者はそこに入れないのです。慣れっこなので、外から静観していますが、後者に囲まれていると自分だけが置いてけぼりになった疎外感を感じることも多いようです。

また後者からすると、前者とはこの状態が発生しにくいので(ゼロというわけでもないですが)、つい「冷たい」「何考えてるかわからない」のように違和感や不安を覚えてしまったりします(特に俯瞰の高い前者さんに対して感じるようです)。前者は、どれだけ善意で接しても、自分にはどうしようもないことでそんなことを言われるので、憤りや悲しさを感じていたりします。

 

後者同士は常になんとなーく、テレパシー的に体で情報交流しているので、逆に「苦手な人」「嫌いな人」と関わることをかなり嫌がる傾向にあります(接続=好意なのと逆)。

「好きな人がいても嫌いな人がいればその場に行かない」というようなことも後者には多いようです。(ちなみに前者にはこれは基本的にありません。「切断」「排除」レベルのよほどにならない限り、嫌いでもふつうに付き合います)

ただしそれではこのご時世、世界が狭くなるしかないので、後者は嫌いな人や苦手な人を減らし、多少嫌でも飛び込んで「損」をする覚悟のほうが、結局自身のためになるように思います。

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